本章では太平洋戦争の終結のプロセスと、そして原爆投下の問題をあつかいます。
米国では「原爆は悲惨だが戦争を止めさせるためにはやむを得なかった」という教育がされています。
日本人はもちろんこのような言説は米国の身勝手な言い分だとして反発するのですが、実は内心では、それももっともかも知れないと同意・受容しているふしがあります。
それが原爆問題を根本的に解決できない、一番大きな問題ではないかと思われます。
その理由は、アメリカ人も日本人も、太平洋戦争に対して同じ歴史認識−日本が狂信的な侵略思想にかられて無謀な大戦争を引き起こし、結果として自滅していった−を共有しているからに他なりません。
故に原爆投下は、日本がみずから招いた災厄であり、アメリカの責任ではない、と。
このような歴史認識は後述する東京裁判で形成され、今日に至るまでほとんど改められることなく持ち越されてきたものですが、それが全くの虚偽であることは 第三章でも詳しく説明したところです。
虚偽であることが明白であるにも拘わらず、何ら修正・改善されえない、これを妨害・抑圧する要素と力については序章を参照ください。
以下、本章ではこのような言説が虚偽であり欺瞞であることを、太平洋戦争の終戦プロセスに即してみていきたく思います。
原爆問題は、やはりこの終戦問題と密接不可分の関係にあります。ただし、これまで言われてきたのとは違った意味においてです。
[昭和天皇の終戦工作]
日本は終戦の問題を計画もせず、後先も考えずに無謀な戦いに入っていったと思われていますが、それは誤りです。
この終戦問題を最も真剣に考えていたのは、やはり昭和天皇でした。
真珠湾攻撃から2ヶ月ほど経た昭和17年の2月10日、昭和天皇が東条首相に対して、直接、終戦の検討を進めるよう指示を出していたことが内大臣・木戸幸一の日記に記されています。
天皇の発言内容は下記のとおりです。
戦争の終結につきては機会を失せざる様、充分考慮し居ることとは思ふが、人類平和の為にも徒に戦争の長びきて惨害の拡大し行くは好ましからず。又長引けば自然軍の素質も悪くなることでもあり、勿論此問題は相手のあることでもあり、今後の米英の出方にもよるべく、(中略) それ等を充分考慮して、遺漏のない対策を講ずる様にせよ
[『木戸幸一日記』昭和17年2月11日]
昭和天皇は東条首相に対するこの指示において「人類平和のためにも戦争が長引くのは好ましくない。諸条件を考慮のうえ、遺漏なく終戦の措置を講じるように」と述べています。
「人類平和のために速やかな終戦を」という表現がここには明記されているのです。
世界の戦争史上において国家の指導者が残した発言として、これは最高のものの一つと評して間違いはないでしょう。否、これ以上に崇高な言葉を見ることができるでしょうか。
戦争の圧倒的勝利の段階において、このような言を発した例は寡聞にして他に知らない。
敗戦状態に追い込まれてからなら、よく耳にする言葉ではあります。敗北を糊塗するための口実として。
だが、ここはまったく違う。真珠湾攻撃の成功、マレー沖海戦での大勝利と、日本は連戦連勝のただ中にあり、このまま一気にニューヨーク、ワシントンにまで攻め上れといった勇ましい言辞が世上で飛び交っていた時のことなのです。
昭和天皇という人物の並外れた偉大さを、まがうことなく感得させてくれるエピソードではないでしょうか。
この終戦指示の出された日の翌日2月11日は紀元節であり、それを機に終戦の方向に進むことが肝要であると考えられたのでしょう。
またこのとき、日本は英国領シンガポールに対する攻略戦のさなかにもありました。日本軍は2月7日にシンガポール攻撃を開始し、同15日にこれを陥落させていますが、昭和天皇はシンガポール攻略が目前に迫っているということを考慮の上でこのように発言した可能性もあります。
すなわち、シンガポール攻略は日露戦争の旅順攻略に相当する。大英帝国のアジア支配の牙城であるシンガポールを落とすことは、旅順攻略の前例からも、講和へ向けての大きなきっかけとなりうるでしょう。
イギリスとしてもアジア支配の拠点であるシンガポールを落とされると、マレー、ビルマ、インドという英領植民地が相次いでドミノ倒しで日本に占領される恐れが出てきます。
シンガポール攻略が現実のものとなったこの時点は、日本とイギリスの間において講和交渉が開始できるよいチャンスなのでした。
木戸幸一の2月16日の日記にはローマ法王に使節を派遣する計画があったことが記されています。講和仲介依頼であった可能性が高いと思われます。
【ミッドウェーの悲劇】
しかしながら、この流れに水を差すことになるのが4月18日のドーリットル東京空襲事件でした。真珠湾攻撃の際、たまたま演習で外洋に出ていて討ちもらした3隻の航空母艦が、日本に対する反撃を試みていました。
3隻の空母と艦載航空機だけではたいした反攻もできなかった。しかし、これは米軍の戦闘者魂を称賛しなければならないところですが、彼らは空母に陸軍の長距離爆撃機B-25を乗せて日本遠海に迫り、そこから同機16機を発艦させて東京をはじめ日本各地を空襲したのです。
これら大型爆撃機は空母には帰還できないので、そのまま中国大陸まで飛来してパラシュートで脱出するというアクション映画さながらの作戦でした。
この冒険的作戦はかなりの戦果をあげ、何よりも首都東京が爆撃されたという心理的効果が大きかった。
そこでこの3隻の航空母艦の捕捉、撃滅のためにミッドウェー作戦が行なわれることとなります。太平洋上のミッドウェー島は米国領であり、これを攻略・占領するという作戦行動を起こすことで、米空母をおびき寄せて撃滅するという計画でした。
また同作戦の裏にはハワイ攻略という隠された目的がありました。ハワイを攻略すると太平洋の制海権は日本に入り、太平洋艦隊が壊滅状態となっているアメリカ側は継戦不能に追い込まれて、講和に進む可能性が生じてくるからです。
実際、この頃、真珠湾ショックに打ちのめされていたルーズベルト大統領は、日本軍のカリフォルニア上陸作戦を不可避と想定しており、シカゴ方面(ロッキー山脈を当然ふくむと思われますが)での防衛・反撃作戦を真剣に検討していたほどでした。
これは今日のわれわれからすると信じがたいことですが、事実なのです。それほどに真珠湾以降の日本軍の快進撃は衝撃的であったということでしょう。
しかし周知のとおりミッドウェー作戦は日本側の大惨敗に終わり、戦局は一変し、この戦争における主導権をアメリカに譲り渡すこととなってしまいます。
[「無条件降伏」]
そして攻勢に転じたアメリカが持ち出してきたのが、かの有名な「無条件降伏」という名の要求でした。これこそ、この戦争を根本的に悲惨なものとし、世界を破滅に追い込んでいった最大の原因です。
無条件降伏とは軍事上の概念・用語です。しかしルーズベルトはこれを国家に対する終戦条件に適用したのですが、これは前例のないことでした。
そもそも無条件降伏とはどのような状態を指すことなのでしょうか。
軍事上の場合ならば、それはもちろん完全降伏によって相手側の捕虜になり、その身柄の取り扱いは勝者の側の裁量に委ねられることを意味します。
しかしながら戦時捕虜については、その取り扱いに関するジュネーヴ条約が存在することから、仮に無条件降伏した場合でも、捕虜の身柄の安全と待遇の保証がなされています。
しかし国家に対する無条件降伏要求ということは前例がなく、降伏した国家と国民がどのような扱いを受けるかという点については、何の基準も保証もありませんでした。
国家に対する無条件降伏要求とはいったい何を意味するのでしょうか。
この問題についてルーズベルトは定義をせず、説明を拒否しました。「相手国が無条件降伏を受け入れた場合にのみ、寛容の精神をもって臨むであろう」と言ったとのことです。
寛容の精神とは自発的で一方的な慈悲、無制約で自由な支配、そして交渉の拒絶ということに他なりません。
つまり和平交渉をいっさい受け入れない絶対支配の要求、それが無条件降伏の意味するものであり、これがこれまでの戦争と根本的に違う第二次世界大戦の大きな特色でした。
この無条件降伏の欲求こそが、この戦争をかくも悲惨にし、大量の一般市民を殺戮し、国土を破壊し、そしてついには原爆まで持ち出さなければならなくなった最大の原因でした。
我々はこの無条件降伏要求という事柄の重大さを見落としています。当たり前のように思っていますが、そうではない。ナチスのホローコーストにも等しい、人道に対する破滅的な犯罪行為であるということを認識しなければなりません。
この無条件降伏ということに対しては、英国首相チャーチルも米国務長官コーデル・ハルも懸念を表わし、米軍総司令官アイゼンハワーはより明確に反対したといわれています。
「降伏条件が明示されない限り、相手側は敗北が明らかであっても決して戦闘をやめようとはしないであろう。いたずらに戦争を長引かせるだけだ」(アイゼンハワー)
しかし、このようなアイゼンハワーたちの反対にもかかわらず、ルーズベルトはこれらを却下しています。
「人類平和のためにも戦争は速やかに終わらせなければならない」と言った昭和天皇のスタンスと、無条件降伏要求の貫徹につきすすもうとするルーズベルトのスタンスとの違いは明白ではないでしょうか。
日本はもはやどこまでも戦うしかなかった。さまざまなチャンネルを通してアメリカ側へ向けて発せられた講和のシグナルは、いずれも空しく消えていくのみでした。
[日本の終戦特使と原爆投下]
日本の首脳部では、昭和20年頃になると降伏も含む終戦を止む無しと決していました。
しかし無条件降伏は受け入れられない。そこで仲介者を立てての終戦交渉となりましたが、前述したローマ法王仲介は不首尾に終わったのでしょう。
この段階での状況では、日ソ中立条約の相手国であるソ連に終戦仲介をすがるしかないということになりました。
昭和20年7月には前首相近衛文麿を特使とし、天皇親書を持参してモスクワに派遣することが決定され、ソ連側に対し和平要請の特使を派遣したい旨を通告しました。
その頃、ソ連のスターリンをふくむ連合国側の首脳はドイツ・ベルリン郊外のポツダムにおいて会談の最中でした。
スターリンはその席上で、日本側から終戦講和の意向が正式に示されたことを披露したのですが、アメリカ大統領のトルーマン(ルーズベルトは病没)は冷笑して、これを無視しました。
この頃、米国ネバダ州における原爆実験成功の報告が入っており、無条件降伏を貫徹する条件がすべてそろっていたので、今さら日本と講和交渉する必要など全くなかったからです。
「戦争をやめさせるために原爆は仕方なかった」という言説がいかに欺瞞に満ちたものであるかが、お分かりになるでしょう。
「無条件降伏を飲ませるためには、原爆は最も効果的だった」というのが事の本質です。
アメリカ国民には、原爆投下をめぐる言説の欺瞞と、悪魔の欲求のためにあの無惨な地獄の世界が現出したことの意味をよくよく理解してもらいたいと思います。
しかしトルーマンは、白紙無条件降伏は国際世論の観点からも倫理的な異議が出てくる恐れがあると考えて、日本国家を破滅しない、国民を奴隷にしないなどある一定の条件を文言で示すことにした。これがポツダム宣言です。
一定の条件をつけた上で、問答無用で飲ませる。飲むか飲まないか、交渉は一切しない、説明もしないというのがポツダム宣言の精神であり、「条件明示型無条件降伏」とよく評されます。体裁を取り繕った無条件降伏要求に他ならないでしょう。
鈴木内閣はこれを無条件降伏要求とみなして、「ノーコメント」と発表した。しかし新聞が「黙殺」という言葉を使ったことから、連合国側に原爆投下のよき口実を与えてしまいました。
条件提示で休戦を示したが、日本はそれを飲まなかったので原爆を投下したというストーリーで原爆投下を正当化しています。
しかしこの時点でトルーマンは、「日本がポツダム宣言を受け入れることは無いと思っていた」とはっきり言っています。
ポツダム宣言には占領統治下での施策について何も記されて居らず、本質は支配の白紙委任状、一方的強制、完全服従支配にほかならないのです。
そして8月6日の広島への原爆投下の後、8日にはソ連が日ソ中立条約を蹂躙して満州に侵攻しました。
このソ連の満州侵略で日本は万事休すとなります。
8月14日、鈴木内閣は天皇制の護持、天皇大権の存続を含んだものと了解した上でポツダム宣言を受諾すると通告しました。これに対し連合国側は、「天皇及び日本国政府は連合軍司令部の下に従属する」という言い方で日本に回答しました。
同日、ポツダム宣言の受諾の可否をめぐって政府・軍部の間で長時間の議論がたたかわされましたが、最終的に昭和天皇の裁断によって受諾が決定され、太平洋戦争は終結を見ました。
[ヤルタの密約と日ソ中立条約侵犯問題]
太平洋戦争の終結、そしてそれは同時に第二次大戦の終結となるのですが、それは二つの「異常事態」が作動して不可抗的に終結に至るのです。
二つの「異常事態」とは、既述の原爆投下とソ連の日ソ中立条約侵犯による対日参戦です。
これを「異常事態」と呼ぶのは、この二つがともに国際条約を蹂躙する犯罪的行為だからです。前者は残虐兵器の使用を禁じたジュネーヴ条約違反、後者は説明の要なき侵略行為だからです。
日本はたしかにボクシングリングのマットに沈んだ。しかしそれは連合国側の、疑いの余地無き反則攻撃の連続によってのことでした。この場合、マットの上で「勝った勝った」と騒いでいる連合国側に、戦いの勝利者を語る資格など果たしてあるでしょうか?!
太平洋戦争および第二次大戦の終戦問題を事実に即して直視するとき、この根本的矛盾から目をそらすことは許されないはずです。
それでは、この根本的矛盾は如何にして生成したか。原爆問題は既述のとおりです。ここでは日ソ中立条約の侵犯問題を取り上げて見ていきましょう。
昭和16(1941)年4月に締結された日ソ中立条約は5年間の効力を有していました。すなわち、昭和21(1946)年4月まで有効であったのです。
しかし1945年2月のクリミヤ半島におけるヤルタ会談で、アメリカ大統領ルーズベルトはソ連のスターリンに対して、日本の固有領土である千島列島(「北方領土」ではない! 全千島列島です)をソ連に引き渡すという条件の下に、日ソ中立条約を侵犯して日本に攻め込むように要請しました。
ヤルタ会談はルーズベルト、チャーチル、スターリンの3人による、ドイツの降伏後のヨーロッパ情勢と勢力圏の設定を本題とする会議でしたが、そこで対日問題に関する秘密の裏協定がなされます。いわゆるヤルタの密約であり、その内容は上記のとおりです。
これは実に驚くべき内容の取り引きであり、ギャング、マフィアの手口と何ら変わるところがありません。
これは国際条約侵犯を意図した戦争行為であり、紛れのない戦争犯罪、「平和に対する罪」として東京裁判でいうA級戦犯に完全に該当しています。
A級戦犯の適用対象者にはさまざまな議論がありますが、ルーズベルトとスターリンの二人については疑問の余地が無い。このような恥知らずの戦争犯罪者どもを、どのようにして弁護できると言うのでしょうか。
さすがのアメリカもこれにはあきれて、後にアイゼンハワー大統領の時代になって、ヤルタ協定はルーズベルトの個人的文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効であると宣言しています。
アメリカ自身によってすら絶縁状をたたきつけられた程に、弁解の余地なき、恥しらずな戦争犯罪的行為であったということでしょう。
たしかにヒットラーも独ソ不可侵条約を蹂躙してソ連に攻めこんだという事実はある。
しかしながら、結果としてヒットラーは自滅の途をたどることとなった。それ故にヒットラーの国際条約蹂躙という犯罪行為については、無関心でも実害はない。
これに対して、ヤルタの密約によるソ連の日ソ中立条約の蹂躙は、連合国側の「勝利」に直結しているのです。
太平洋戦争および第二次大戦の終戦は、アメリカの原爆投下と、ソ連の日ソ中立条約侵犯という二大戦争犯罪行為によってもたらされているという事実!
実に驚くべきことに、戦後70年の間、このような恐るべき、忌まわしき事実が黙殺されたままに今日に至っているのです。こうした根本的な不正義を放置したままに国際政治は繰り広げられてきたのです。
国際連合をはじめとする戦後の国際的な諸機関、諸機構は、すべてこの根本的な不正義の基礎の上に構築されてきたという拭いがたい矛盾を抱えています。国連の常任理事の構成はその典型でしょう。
このような根本的な不正義を黙殺しておいて、どうして国際政治の正義や大義を語ることなどできるでしょうか。すべては空しく響くのみです。この根源的な不正義を糺すことなくして、いかなる国際的正義も、その真の実現を達成することは望むべくもないということです。
それ程に原爆問題と日ソ条約侵犯の罪は重く、現代国際政治に深い傷跡を残している。
この二大戦争犯罪的事案は、現代国際政治世界に対して原罪としての責めを永く負わせ続けることになるでしょう。
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