満州とは、「万里の長城」の東方起点である山海関(現、秦皇島市)より東の地のことで、古来より満州人の地でした。現在は、中国の東北三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)とされています。
関東軍とは上記の山海関から東に駐留することから、その名があります。
関東とは、中国本土からすれば、万里の長城という大境界城壁の関門の外に広がる地域ということになるでしょうか。
この満州の地において1931年(昭和6)9月18日、重大事件が勃発します。
日本の管轄下にあった南満州鉄道(通称「満鉄」。大連から長春までの路線)の線路が爆破されたとする事件です。
場所は奉天(現、瀋陽)郊外の柳条湖の付近であったことから、この事件は「柳条湖事件」と呼ばれます。中国では発生月日で事件を表現しますので「9.18事件」と記されます。
そしてこの満鉄爆破事件を機に関東軍は満州全域に軍を展開し、一気にこれを制圧して支配下に収めてしまいます。これが「満州事変」です。

【図】 満州全図
2.満州事変の背景
この満州事変はなぜ起こったのでしょうか。その背景を考えてみましょう。
[日露戦争とポーツマス条約]
日本が、この満州の地と関わりを持つようになった始まりは、日露戦争であり、その戦後に結ばれた1905(明治38)年のポーツマス条約です。
日露戦争では満州が戦場となり、有名な旅順要塞の攻防戦や、日露戦争最大の激戦となった奉天会戦などがありました。
そして日露戦争が終わった後のポーツマスの講和条約において、日本は、ロシアが清朝中国から獲得していた遼東半島の租借権、および南満州鉄道と沿線の炭坑の租借権を継承しました。
日本はまた独自に清朝中国と交渉して、同鉄道守備のための日本軍常駐権および沿線周辺の鉱山採掘権をも得ました。
こうして日本は、満州の地に確固たる地歩を占めるにいたったのです。
[辛亥革命と満州の情勢]
1911年、中国では孫文が組織した国民党による辛亥革命が勃発します。
国民党は三民主義―民族・民権・民生―をスローガンとして、民主主義と民生安定を掲げるとともに、満州民族による征服王朝である清朝を打倒して漢族による国家回復を目指していました。
そのような漢族ナショナリズムの高揚の中で、外国勢力に対する排撃の気運も高まり、清朝が欧米列強および日本との間に締結していた条約を無効とし、破棄する動きが急となります。
孫文は革命前、長く日本で亡命生活を送っており、同志とともに日本で革命の準備運動を行っていたこともあって、日本には融和的な姿勢も見られました。
しかし孫文は1925年に亡くなり、その後、軍事クーデターによって国民党の実権を掌握した蒋介石は、北伐を行って清朝の打倒を目指すとともに、国権の回復を呼号して、清朝が外国と取り結んでいた国際条約の見直しに乗り出します。
日本に対しても日清戦争後の下関講和条約に基づいて1896(明治29)年に締結された日清通商航海条約―欧米列強が清朝中国に押しつけた不平等条約と同内容―の修正を求めると同時に、満州における日本の権益への侵害も目立つようになりました。
[清朝の終焉と軍閥割拠]
辛亥革命の勃発にともない、清朝政府の執政をつとめていた袁世凱は革命派と取引をして、清朝の幕引きを計ります。
従来通りの皇帝に順じる生活と待遇を保証するという条件の下にラスト・エンペラー宣統帝溥儀は退位し、清朝は終焉を迎えるのでした。
清朝が消滅したのちの中国は不安定な状態となります。
まず清朝の無血退場を取り仕切った袁世凱が国民党の総統として権力を掌握しますが、その後、彼は自ら皇帝となって新王朝を開こうとしますが、周囲の反発を受けて断念に追い込まれ、失意のうちに亡くなってしまいました。
その後は軍閥割拠の時代に入り、北京に根拠をおく「直隷派」、満州に勢力を張る「奉天派」といった軍閥たちが軍事闘争を展開し、さらには南京に拠点をおく国民党の蒋介石が北伐を敢行して、中国全土の掌握を目指していました。
[満州をめぐる情勢]
こうした中国本土の軍事闘争の中で、満州の情勢もきわめて不安定でした。
一つ目には、蒋介石の北伐が関内、つまり万里の長城内にとどまるのか、それとも満州の地までも征服の対象となるのか、どうかという点。
二つ目には同じ満州で権益を争っている欧米列強との関係。
三つ目には、日露戦争で敗れたロシアの復讐戦の恐れ。
四つ目として、ロシア革命によって樹立されたマルクス・レーニン主義を掲げるソビエト連邦政権の動向。
特にソ連を中心にして世界中にはりめぐらされた共産主義革命を推進する組織「コミンテルン」の脅威を挙げなければなりません。
ロシアの脅威は、ソ連コミンテルンの脅威と重複倍増する形で日本に大きな脅威をおよぼしていました。
第五として、中国国内における民衆的なナショナリズムの高まりがあります。
満州族の清朝を打倒した流れの中で、漢族としての自意識の高まりが盛んでした。植民地的な権益や租借地が攻撃の対象となり、排外的なデモが頻発していました。
日本人や朝鮮人の入植した土地が一方的に没収されたり、中国側官憲に逮捕されて投獄されるといった事案も数多く発生していました(満州事変ののち解放されたこの種の投獄者は500名にのぼっていたということです)。
第六として、蒋介石の国民党政権は満州における日本の権益に打撃を与えるべく、満鉄に併行して鉄道を敷設して運輸活動を行ったために、満鉄の経営は赤字に転落し、苦境に追いやられるという事態も生じていました。
平行線の敷設は違反行為なので、満鉄側は国民党政府に抗議しましたが、聞き入れられませんでした。
このような緊張状態の中で満州事変は勃発したのです。
しかしその前に、「第一次満州事変」とも言うべき「張作霖爆殺事件(「満州某重大事件」)」が発生します。これは満州事変の性格を考えるうえで重要な意味をもつ事件でした。
3.張作霖爆殺事件1928(昭和3)年6月
[奉天軍閥張作霖]
1911年の辛亥革命によって清朝は消滅し、さらにその後を引き継いだ袁世凱の政権も崩壊すると、中国、特に北京を中心とする北支、そして満州方面は軍閥割拠の時代に入ります。
そのような中で、日本と深い関わりをもったのが満州の奉天を根拠とした奉天軍閥の張作霖でした。彼は奉天出身の軍人で、辛亥革命後の混沌とした時代に袁世凱の下で頭角をあらわし、満州方面の政治と軍事を掌握し、奉天軍閥の首領として大きな力をもっていました。
張作霖は日本側に対して協調的なスタンスをとっていたことから、満鉄および関東軍は張作霖と提携して満州経営を進めていました。
しかし情勢が混沌とし、上記の五つの対立や矛盾が複雑に絡み合う中で、張作霖も日本側と距離を置くようになり、また他方では中国本土に対して野心を抱くなど、日本の満州経営にとって不都合な行動も少なくなかったことから、日本側も張作霖に対して疑念をいだくようになっていきました。
[列車爆破事件]
関東軍の内部では、張作霖に依存することを止めて、満州の直接支配を実現すべきとする計画が進められていました。
この計画の実行のために、関東軍参謀河本大作が事件を仕組みます。
1928年6月4日、北京から列車で奉天に向かっていた張作霖を、河本らの仕掛けた爆薬で列車もろともに爆殺してしまいました。
[処分問題と田中義一内閣の倒壊]
これはもちろん国際的な重大事件として報知されました。日本では「満州某重大事件」の名で呼ばれていました。
日本内地からは事件直後にただちに調査官が現地に派遣をされて、現地の警察と合同で捜査を行ったのですが、これが日本側の仕業であることが明らかとなり、実行者として河本の名前も特定されていきます。
この調査報告は時の首相でした田中義一に伝えられ、さらにこの報告内容は首相の田中から昭和天皇に奏上され、関係者を厳重処分する旨も田中より明言されました。
国際協調を重んじる昭和天皇は今回の事件を憂慮していましたが、田中が厳重処分を確約したので、ひとまず安堵されたのです。
厳重処分とは、関係者を軍法会議にかけて厳罰に処することを意味するのですが、陸軍がこれに猛反発したために、軍部出身である田中は腰砕けの状態となってしまいました。
そこで今回の事件では、鉄道警備に責任をもつ関東軍の管理不行き届きという行政上の過失という処分にすることになり、その旨を田中が昭和天皇に奏上したところ、天皇は前言と違うことに強い不快感を表し、田中は事実上の拝謁停止の状態となってしまいました。
結局、処分は行政的過失に止められ、河本は停職、村岡長太郎関東軍司令官は自発的辞任という形で終わったのです。
しかし昭和天皇の憤りはおさまらず、天皇の不興をこうむった田中は気落ちして、程なく急死をしてしまいました。あるいは責任を取っての自害であったやも知れません。
この田中首相の急死問題は、当然のことながら昭和天皇に少なからぬ衝撃をおよぼしたことでしょう。天皇権力の刀の切れ味があまりに鋭いことを感じせしめ、昭和天皇の発言と行動に大きな自制を加えることになりました。
これはその後の日本の運命にとって大きな影響をおよぼすことにもなります。
[軍部の動向]
張作霖爆殺の実行は河本大作の単独犯の形をとっていたが、関東軍の組織ぐるみの謀略であることは紛れもありません。
関東軍では、張作霖の爆殺を反日勢力の犯行と唱えて、この事件を機に満州全土の制圧作戦に乗り出す手はずでした。
ところが田中内閣の日本政府が現地に調査官を派遣して、関東軍の謀略の可能性の高いことを確認し、これを天皇に奏上するという事態になったために、現地の関東軍は動けなくなってしまいました。
そもそも軍隊が出動するというのは天皇の統帥権に属することであって、天皇の命令を必要とします。通常は、参謀総長(海軍の場合は軍令部長、のち軍令部総長)が天皇の命令を奉じて伝達する「奉勅命令」の発出をもってなされます。
この事件の場合、関東軍の謀略であることを天皇自身が憂慮していることから、関東軍出動の奉勅命令など下されるはずもなかったのです。
関東軍はこのような事態の展開に大きな挫折感を覚え、これを深刻に受け止めざるをえなかったのです。
これが張作霖爆殺事件の顛末ですが、さまざまな意味において、その後の歴史の展開に大きな影響を及ぼすことになった事件でした。
4.満 州 事 変
この張作霖事件の不発のあとを受けて、関東軍はふたたび出動計画を立てます。関東軍高級参謀・板垣征四郎と同作戦主任参謀・石原莞爾が中心となって、満州の盗賊(「匪賊)が満鉄の線路を破壊したという形を作り上げ、それを口実に一気に満州を制圧する作戦を立てました。
張作霖事件の経緯から、関東軍出動の奉勅命令が出されることは無いと分かっていましたので、現地の独断による緊急出動という形で満州の制圧を進めるという計画でした。
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖付近で満鉄の線路を爆破し、間髪を入れずに関東軍を出動させました。昭和天皇ら、国内の国際協調派に制止させられないよう一気呵成に満州全域の制圧を目指します。
さらにこの計画には、在朝鮮日本軍司令官であった林銑十郎も荷担しており、関東軍の出動に呼応して、在朝鮮日本軍をも満州の地へ越境出動させることによって事変を既成事実化してしまいました。
【十月事件】
さらに計画は、満州の地にとどまらず、日本国内の政府機関まで巻き込んだ、より大がかりな形で構成されていました。「十月事件」と呼ばれるものがそれです。
すなわち満州の現地と呼応する形で、日本国内においても満州制圧計画に反対する勢力の動きを封じるために、陸軍内部にあった桜会と呼ばれるメンバーによるクーデターが計画されていました。
その中心にいたのが橋本欣五郎参謀本部ロシア班長。かれはトルコ公使館付武官の時代に、近代トルコを建設したケマル・パシャの武力革命思想に影響され、軍事力による政権奪取と国家改造の有効性を感得していました。
橋本を中心とする桜会メンバーの計画というのは、陸海軍を動員して首相や閣僚を殺害し、陸軍大将の荒木貞夫を首相兼陸相とする軍部内閣を樹立するというものでした。
そして彼らの行動にとって最も重大な障害となると考えられた人物、すなわち昭和天皇の扱いが枢要の問題となります。
いくら首相・閣僚を殺害して権力を奪取したとしても、昭和天皇を放置しておけば、あの張作霖事件の二の舞になってしまうであろうからです。
実は十月事件の計画メモには天皇の取り扱いは記されていません。さすがにそれを明記することは恐れ多いと考えたのでしょう。
しかし昭和天皇を放置しておいては計画は挫折してしまいます。彼らは暗黙のうちに天皇の取り扱いを決めていたようです。
その具体的内容は、レナード・モズレーの著書『天皇ヒロヒト』に記されています。モズレーが関係者の取材とインタービューをしている中で、この重要な情報を把握したようです。
同書によると、彼らは昭和天皇を東京湾上の軍艦に移しまいらせて、そこに留め置くという計画であったとのことでした。天皇の幽閉計画!
しかし彼らがこのクーデターを本気で実行しようとしていたかどうかは疑問です。
というのは、彼らは料亭などに集まっては大ぴらにクーデターの「謀議」を行っており、むしろこの軍事行動の情報をあえてリークすることによって、それがもたらす牽制効果をねらってのことであったと解すべきかもしれません。
その意味では、後の二二六事件とは大きく異なっているのですが、満州事変に対する側面支援であり、同事変を阻止しようとする勢力に対する牽制という観点からする限り目的は果たしていたように思われます。
満州現地と日本国内との連繋によって、謀略とは言え、壮大な構想の実現を図っていった石原莞爾という人物の戦略には驚くべきものがあります。
[満州各地の制圧]
関東軍は、本国政府の不拡大方針や、陸軍中央の局地解決方針を無視して戦線を拡大します。軍部中央は、関東軍の行動を奉天までで止めようとしますが、参謀石原は一気に戦線を拡大して、満州問題を片付けようとします。
そして翌1932年(昭和7年)2月のハルビン占領によって、中国東北部を制圧し、満州の主要部分を支配下におさめることに成功します。
【満州国の設立】
侵略という非難をかわして満州全域を押えるために石原莞爾らが考えていたのが、満州国家の設立です。傀儡国家を作ることによって制圧を正当化しようとしました。
すなわち満州人の出身で、清朝最後の皇帝であった宣統帝・溥儀を擁立して、彼を元首とする満州国家を建設するというプランであり、これは事変の当初から織り込まれていた構想でした。
関東軍では事変が勃発した直後から、当時、天津に居住していた溥儀に満州国の元首に就くよう要請し、溥儀は満州族の国家を建設することを条件にこれを受諾し、11月10日、天津を出て旅順に赴く。
1932年3月1日、溥儀を満州国執政に擁立し満州国建国が宣言されました。首都には長春が選ばれ、新京と名づけられます。
さらに2年後の1934年3月、溥儀は皇帝となり、国は満州帝国となりました。
【リットン調査報告書と国際連盟脱退】
これに対して、中華民国政府は国際連盟にこの事変を提訴し、それに基づいて1932年1月、イギリスのリットン卿を団長とする調査団が結成され満州に派遣されます。
調査団の視察は同年6月に完了。同10月2日に報告書が公表されます。
報告書では、満州の地が法的には中国の領土であることを認めつつも、日本の特殊な権益が存在する自治的な性格の場所であるとして、日中間で条約締結のうえでこの自治的な地域が国際的に承認されるべきとしていました。
リットン報告書は満州国を否定しており、それで日本は国際連盟を脱退したと理解されていますが、同報告書の内容は、中国の領土主権を尊重する形を取りながらも、実質的にはむしろ満州に成立した新しい政治組織の存在を追認するものだったのです。
日本は、同報告書が満州国という名前を否定していることに反発していましたが、国際連盟に提出された決議案は、同地域における日本の特殊権益は認めつつも、満州の地にできた自治的政治組織の存在を否定する点では、リットン報告書よりも日本にとって不利な内容のものとなっていました。
1933年3月、この決議が連盟総会で採択されたことにより、日本は国際連盟を脱退することとなりました。
中国はさらに連盟に対して、連盟規約に基づいて日本に経済制裁を発動するよう求めましたけれども、連盟各国がこれを採用することはありませんでした。
【満州国の国際的承認】
満州国は前述のように翌34年3月に帝政に移行して満州帝国となりますが、必ずしも国際的に孤立したままであったり、否定されていた訳ではありません。
むしろ国際的には満州帝国は承認される方向にありました。
ドイツ、イタリアは言うまでもなく、スペイン、フィンランドやクロアチアなどの枢軸国に友好的な諸国、タイ王国などの日本の同盟国、そしてデンマークやバチカン公国などの中立国をふくむ20ヶ国ほどが承認をしています。
当時の世界の独立国家というのは60ヶ国ほどですから、決して少ない数字ではないでしょう。正式の国家承認ではなくとも、国書の交換をしている国はこの他にも見られました。
それのみならず、後の日中戦争に際しては、中国を支援して日本とは敵対関係にあった米国ですら、日中戦争の解決を条件にしてではありますが、満州国を承認する姿勢を示していました。
第三章で、日中戦争を解決するために話し合われた日米交渉について記しますが、そこでの議論のたたき台として提示をされた「日米諒解案」では、日本軍が中国本土から撤兵するならば米国は満州国を承認し、さらには蒋介石の中華民国政府が満州国を承認するように斡旋するという内容まで示されているほどでした。
日本を真珠湾攻撃に導くことになった、かの悪名高い「ハル・ノート」ですら、その第一次原案には「満州を除く中国大陸からの日本軍の撤兵」と条件指定が明記されていて、満州の存在は認められていたのです。実際に出されたハル・ノートでは、この満州容認の文言が落とされてしまうのですが・・
さて東京裁判において満州事変は、帝国主義的侵略拡大活動の第一ステージで、その後、盧溝橋事件から日中戦争までが第二ステージ、真珠湾から始まる「太平洋戦争」が第三ステージという位置づけがなされ、今日においてもその形で教科書などに描かれています。
しかしながら、それは誤った歴史認識です。なぜ誤りであるのか?
その理由を、続く各章において詳しく説明していきたく思っています。