太平洋戦争の問題を考えるにあたって、最初に検討しなければならないことは、われわれは果たしてまともな研究や、まともな議論ができる環境の下にあるのかという基本的な問題です。

 なぜ、そんな当たり前のようなことを問題とするかというと、それはやはりこのHPの冒頭に掲げた二つの文章にこだわるからです。

 第一のものは、アメリカの国務長官と陸軍長官という、当時のアメリカ政治の第一線にいる重要人物たちの間の会話であり、しかも発言の記された資料は陸軍長官スチムソンその人の日記という第一級資料。
 つまり歴史研究において最も信頼度の高いとされている資料です。

 第二のものは、アメリカ海軍の参謀長から太平洋およびアジアの米艦隊司令官に対して発せられた正式の戦争警告電報。その重要性は言うまでもないことです。

 これらは真珠湾の事件から始まる「太平洋戦争」が、アメリカの計画的誘導によって発生した事柄だということを立証する重要な証拠となることでしょう。


 すなわち「太平洋戦争」を引き起こした第一義的な戦争責任は、日本側ではなくて、アメリカ側にあるということを意味しているのです。


 しかし実際にはそのような認識にはなっていない。またそれを問う声も聞かれない。新聞やテレビの太平洋戦争関連の記事や番組において、この点が大きく取り上げられることはないのです。

 旧態依然たる、「日本は狂信的な軍国主義と帝国主義的な侵略の野望にかられて、無謀な世界戦争に突入していった」といった類の言説が、いまだにまかり通っているのが実情です。

 これはおかしなことではないでしょうか、これだけ明白な証拠が存在しているのにも拘わらず・・

 これらの資料が、これまで知られていなかったからなのでしょうか?

 否です! 「スチムソン日記」の存在は早くから知られており、公開もされていました。冒頭に掲げた箇所も、早くから指摘をされていました。
 それも40年も前からのことなのです。太平洋戦争を専門に研究する者ならば、当然知っておかねばならない資料と言ってよいでしょう。
 (困ったことに、専門家と称しながら、これらの重要資料をまったく知らない人もいるようなのですが・・)。

 それならば何故、旧来の誤った理解は修正されて正しい歴史認識に改められないのでしょうか。テレビや新聞などのメディアを通して、正しい歴史認識がなぜ広まらないのでしょうか。

 日本国民の歴史認識が改まらないのだから、周辺近隣諸国をふくめた諸外国の人々の歴史認識が改まるはずもないでしょう。

 問題の根は深そうだということが、お分かりいただけるでしょうか。

 証拠は明白であり、はるか昔から知られているにも拘わらず、誤った歴史認識が少しも改められていない。それは、「改めることができない」という目に見えない力が働いているということなのです。

 
【正しい歴史認識を封殺する目に見えない力】

 われわれは、太平洋戦争の歴史を探究していく前に、このような歴史の真実の解明を封殺しようとする力、真実の公表を許さない力、国民の歴史認識を改めることを妨げる目に見えない力について、あるいは理不尽な事情について検討しておく必要があります。

 それを明らかにしておかなければ、いくら歴史の真実を解明しても、すべて無に帰してしまうことになりかねないからです。

 このような歴史認識の改革をさまたげてきた要因の第一は、日本の戦後政治の大部分が自由民主党の政権によって担われてきたという事情です。日米安保条約を取り結んできた当事者である自民党政権は、アメリカに盾突くことはできないのです。

 「太平洋戦争」はアメリカが計画的に引き起こしたとか、当時の米国指導者たちが実はA級戦犯だなどとは、口が裂けても言えないということでしょう。

 さらにこの問題については、1951年のサンフランシスコ講和条約に原因があります。この条約には、いわゆる東京裁判の結果を受け入れなければならないという条項があるために、条約締結の当事者である自民党政権(当時はまだ自由党でしたが)はこの問題を正すという行動がとれないのです。

 歴史認識の改革を妨げている要因の第二は、当然のことながら、左翼系の政党、学者、マスコミです。彼らは戦後一貫して、軍部や天皇の戦争責任を追及してきたという経緯があるために、その歴史認識が誤りであったということを認めることは敗北になってしまう。

 そこで彼らは、これらの新事実を隠す、あるいは論著の中にいちおうは書くには書くけれども、それが読者には従来の認識を覆すものという印象が生じないように、さりげなく書くといったやり方がとられます。

 あるいは論著の末尾に載せる後注の、小さな文字の中にそっと忍ばせるといったようなやり方も、しばしば目にします。

 さらには、これら重要な新事実を含む纏まった関係資料を、あえて別々の章に分散させてしまうことによって、旧態依然たる侵略イメージが損なわれないように工夫する、といった姑息なやり方にも注意しなければなりません。

 第三の要因は、いっそう不思議なものです。特定のイデオロギー的な偏向がないにも拘わらず、そして上記のような新事実の 存在を知っているのに、歴史認識の改善に対して抑制的であり消極的という傾向です。

 それは学者、評論家、マスコミ関係者の別にかかわりなく、同じような傾向を示しているように思われます。

 そこでも、新見解が表明されない。あるいは表明されている場合であっても、それを明確に表現せず、あえてボカし、曖昧な表現をするものだから、読者、一般国民には、それが従来の歴史認識を大きく変更する、ないしは覆すものであるという意識は生じません。

 むしろそのような印象を与えないように、意識的あるいは無意識に繕っているとさえ言いたくもなる。

 何故か?! 
 従来の東京裁判史観を覆すような見解を述べる者には、「右翼」「国家主義者」「軍国主義者」というレッテルを貼られる危険があり、それを恐れてのことです。

 そしてこのようなレッテル貼りは、上記第二の左翼系学者、マスコミの常套手段でもあるのだけれども、実はこの種のレッテル貼りの最も強烈なのが他ならぬアメリカです。

 日本国内に、そのような東京裁判の認定を覆すような見解を表明する学者、評論家、ジャーナリストがいたならば、彼らに対してアメリカの学界、『ニューヨークタイムズ』などのマスコミは、「歴史修正主義者revisionist」という烙印を押しつけて攻撃するのを常としてきました。

 この「リビジョニスト」という烙印を押されると、それは死刑宣告を受けたに等しいダメージを受けることになります。日本国内でも白眼視されるが、何よりもアメリカ国内での研究やアメリカ人研究者との交流ができなくなってしまうからです。

 歴史学の世界では、従来は確固不動の真実と思われていた史実が、新発見の資料によって覆っていくということは稀ではありません。
ちょうど、過去の刑事事件で有罪とされていた人物が、新発見の証拠やDNAに関する最新分析方法によって、それが冤罪であったことが明らかになっていくのと同じことです。

 太平洋戦争をめぐっても同様のことです。戦後70年も経っていることから、新資料や新しい研究成果が数多く生み出されており、それに基づいて従来の歴史認識が修正されていくのは当然のことなのです。

 何年たとうが、新資料が出ようが出まいが、歴史認識は不動・不変で修正をいっさい受け付けないとしたら、それは歴史学ではなくて、歴史学の仮面をかぶった単なる教条主義dogmaでしかないのです。

 歴史認識が、新規の資料の発見や新しい分析手法の開発によって修正され、発展していくのは自然なことであり、学問として健全なことです。

 それを70年もの間、「リビジョニスト」という名の恐怖の下に、いっさいの歴史認識の変更を認めないという教条主義的抑圧が続けられてきたことは、歴史の真実に対する冒涜であり、研究の発展を妨げる暴力として許し難いことです。

 もちろん、この種の教条主義的な言論抑圧が、一党独裁国家の方面から加えられることについては贅言を要しないことであり、それは驚くにあたりません。
 しかし、言論の自由を標榜し、それを国是とするアメリカからこの種の言論抑圧がなされ続けられてきたことについては、これを大いに遺憾としなければなりません。

 ことに「リビジョニスト」攻撃キャンペーンを展開し、レッテル貼りと決めつけという手法によって言論抑圧を繰り返してきた『ニューヨークタイムズ』およびそれに追随するマスコミの、言論機関としての責任問題は重大です。

 言論の自由が聞いて呆れるとは、このことです。それらは言論機関として失格ではないでしょうか。恥を知るべきであり、猛省をうながしたく思います。

 第四番目の問題として、従来の認識を覆す新事実が相次いで発見されているにもかかわらず、そもそも、それを知らない自称学者がかなり多数見受けられるということです。

 彼らは、不勉強にして無知にもかかわらず、テレビ、マスコミに登場して、旧態依然たる歴史認識をふりまいており、「日本人はなぜ無謀な戦争に突き進んでいったのか」という類のお説教を得々として語っているという有りさまです。
 テレビ、マスコミの影響は大きいだけに、その害悪の程度は甚大と言わなければなりません。

 問題の第五番目として、そのテレビ、マスコミそのものの責任も重大です。
 これら重要な新資料の発掘に接することがあっても、それをしっかりと報道する責任を回避しています。

 それら新発見資料によって、東京裁判をめぐる認識を覆したり、処刑されたいわゆるA級戦犯の人たちが、実はそうではなかったなどといった番組作りをした場合、視聴者から囂々たる非難や攻撃がくるのは必至でしょう。

 つまりは番組制作者の責任問題につながることを恐れて、結局はあたりさわりのない、お茶を濁すといった手口で終始するような番組作りをせざるを得ないというのが実情でしょう。

 たしかに、番組中で従前の認識をくつがえすような新発見資料の紹介がなされることはあります。
でも巧みに編集されることによって、その後に、その発見効果をあいまいにしてしまうような別の話題をもってきて、視聴者の事後印象としては何も残らないようにし向けていくという手法です。

 例えば、このHPの冒頭にあった『スチムソン日記』と国務長官ハルの発言が紹介されたとしましょう。しかし、それはそこだけで終わってしまい、その後にはそれとはあまり関係のない問題があれこれ取り上げられ、最後に、今は高齢となられた元軍人の証言と称して、「やっぱり侵略思想というものがあったんでしょうな・・」といった類の映像が流されてエンディングといった作りだ。

 これなら『スチムソン日記』もハルの発言も、視聴者の記憶にも印象にも残ることは、まずあるまい。お叱り、苦情の電話が殺到することもなく、番組制作者も、さぞ安堵の思いでいることでしょう。

 このような事なかれ主義はテレビ・マスコミのみならず、政府、外務省、対外諸機関そして大学までもふくめて、日本社会のすみずみにまで蔓延しており、大きな害悪をなしていると言わなくてはなりません。

 第六番目の問題として、日本国民の心性を挙げなくてはならないでしょう。

 日本国民の大多数の心性として、「過ぎたことを今更あれこれ言ってみても始まらない」という感覚が広くある。

 そこで「過去は水に流して」「未来志向」でといった調子になるが、この感覚こそが、歴史認識の再検討にとって大きな障害をなしてきたというのが実情なのです。

 それですから、上に述べたような、お茶を濁したような事なかれ解説に接しても、そんなものかと聞き流して、一向に歴史認識が改まることはない。

 しかし「過去は水に流して」という発想は、日本人の間では通用しても、外国には通用しない。近年の、周辺諸国による執拗な歴史認識攻撃によって明らかなことです。

 たとえそれに同意したとしても、向こうにすればそれは「一時凍結」でしかない。日本を締め上げる必要が出てきたなら、いつでも直ちに凍結解除で、歴史認識攻撃が始まる。

 それに対して日本国民および政府はどうしてきたかというと、その攻撃・非難に正面から立ち向かうことはしない。かわしの姿勢に終始します。

 あたかも台風や厄介な自然災害に襲われたかのように、首をすくめて身を隠し、嵐の通り過ぎるのを待つのです。
そしてそのうち先方の非難・攻撃も収まってきたと見るや、シェルターから出てきて、何事もなかったかのように従来通りの日常が再開されるという次第。

 いつも、そのくり返しではないでしょうか。

 しかし、今回ばかりは過去のくり返しとは、少し事情が違うようだということを多くの人は感じ取っているようです。
周辺諸国の執拗で持続的な攻撃に対しては、これまでのシェルターに身を隠して嵐の通過を待つという、旧来型のかわし対応ではうまくいかないだろうという印象を抱かせるものです。

 歴史認識の問題に、正面から取り組まなければならない。いま多くの日本国民がそのような意識を持ち始めてきました。これは幸いなことです。

 日本国民は、われわれの歴史意識を覚醒させてくれた朴槿恵大統領と習近平国家主席に感謝しなければならないのかも知れません。

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 なぜ真実は隠されてきたのか?

 その理由について考えてきました。問題の根が深いことも御理解いただけたかと思います。そして真実解明を妨げる、目に見えない力がさまざまに働いていることも。

 しかし今、日本を取り巻く厳しい環境は、同時に日本国民に対して歴史意識の覚醒をもたらしてくれてもいます。

 われわれ日本国民にとってこれは、軍事支配の下に行われた東京裁判で決定され、今日に至るまで、少しの訂正も施されることなく持ち越された誤った歴史認識を、全面的に正しうる絶好の機会を得たということなのです。

 戦後70年にして、はじめてこの問題を正面から、そして根本的に正すことができる条件が整ったということです。

 日本国民はこの天与の好機を、決して無にしてはならないということでしょう。


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